多くの白人、黒人を問わずに愛唱されているスピリチュアルソング<アメイジング・グレイス>。
18世紀、英国の奴隷船、船長だったジョン・ニュートンが奴隷貿易の仕事を辞めた後、牧師になってから書いた詩。メロディは英国の「愛する小羊」を原曲とするアメリカ民謡をルーツとしている。
スピリチュアルソング、スピリチュアルとは「霊的な歌」という意味で、いわゆる賛美歌ではない。
ゴスペルでもない。
しかもスピリチュアルには白人のものも黒人のものもある。
<アメイジング・グレイス>はその意味では詩もメロディも白人音楽になる。
しかしこれらの歌が混然歌われるために、その専門家でない限り、その音楽的な境界が分からないのが普通ではないだろうか。
(愛ピとしてはエルヴィスの歌はエルヴィスの霊的な歌であるから、全部スピリチュアルになる、というほどの無分別だが。)
バラードは詩にそのきらめきを持ち、テンポの早い音楽は、リズムにきらめきを持つのがアメリカ音楽の基本である。
その意味でロックンロールはリズムにきらめきを持つ音楽であり、かつ表現者の表現に依存する部分が極端に強い音楽である。
つまり歌詞が同じでも表現者によって意味が変わってしまうほど、表現に依存している。
と、いうことは同じ表現は二度とできないのが常と考えるのが妥当とするなら、極めて即興的な音楽であることを意味する。
その典型がジャズである。「ブルー・ノート」は至宝といえる作品を多く送りだしたジャズの名門レーベル。
その本来は旋法、唱法のスタイルで、そのブルーな音色は哀愁に満ち、やはりアフリカン・アメリカン・スピリチュアルのスタイルの特長である。
それをジャズ・レコードのレーベルの名前にしてしまったわけだ。
スピリチュアル、あるいはブルース、そしてロックンロールに共通しているのは、言葉(詩)が表現によって、詩以上の表現を変幻自在に可能にしているということである。
そしてスピリチュアルを決定づけるのは「コール&レスポンス」と言われるスタイルの歌い方だ。
これはスピリチュアルが”私(I)”で表現されることと関連していて、黒人の音楽が”コミュニティ”の機能を持っていることを暗示している。
つまりソロで歌う者が”私(I)”とコールし、コーラスがレスポンスすることで、”私(I)”は”私たち”に変わっているのだ。ソロが歌う「私の気持ち」は、「あなただけではない私も同じ」と言っているようなもので、しかもそれが神に向かって歌われたりするのだから、痛みは勇気に変わって行く。
これこそがスピリチュアルの魔法である。
楽しくて歌うのではない、悲しくてやりきれなくて、地獄の蓋が開いてそうに見える時に歌うのだ。
個人的な悲しみが、解決されることはないが、みんなの悲しみとして共有することで、それを喜びとするしかないほど悲しい状態で生まれたスピリチュアルの魔法なのだ。
18世紀、特に南部では、白人がキリスト教を黒人に布教した。
もちろん奴隷を従順にさせ、意欲的に作業に従事させるためである。
現世では辛いことが多いかも知れないが、奴隷主の言うことを聞いて、尽くせば、必ず来世では自由になり、恵まれた人生が送れるというものである。
さらに作業に従事する時は、奴隷たちはそこにいることを証明する意味で声を出すこと、
いわゆる合いの手を要求された。
これが「コール&レスポンス」の基礎である。
また、アカベラもそうである。
太鼓(ドラム)がそのリズムによって、奴隷間のメッセージになることを恐れた奴隷主たちが使用を禁じたために、アカベラが基礎になった。
そして楽器を使用できない彼らがリズムをとるために自らの身体を動かすことで身体を楽器にしたのである。
エルヴィス・ロカビリーの原点となる要素が揃っているのが分かる。
奴隷として遥か遠い国から北米に「動産」として連れてこられて、教育も結婚も禁止され、わが子でさえ、奪われ、奴隷業者に売られ、二度と会うこともないままに「奴隷用」として成長させられる。
「生まれつきの知恵とイエス様だけを頼りにするしかなかった」人々の音楽である。
アメイジング・グレイス(驚くべき神の恩寵)
おお何と甘美な言葉でしょう
あなたの恵みによって惨めな罪人であった私は救われました
迷える羊であった私が見いだされ
見えなかった目が見えるようになったのです
天国に一万年を暮らしたとしても
光り輝いて、太陽のように、永遠に
初めて、主を讃え歌った日と同じように
あなたを賛美しつづけます
多くの危険と苦難や誘惑を通り抜けて
ここまで辿りつきましたあなたの恵みによって
私はここまで安全に来られたのです
そしてあなたの恵みによって
私は故郷(天国)に導かれることでしょう
驚くべき神の恩寵
おお何と甘美な言葉でしょう
あなたの恵みによって惨めな罪人であった私は救われました
迷える羊であった私が見いだされ
見えなかった目が見えるようになったのです
エルヴィスはこの<アメイジング・グレイス>で、コーラスに一歩譲ったような表現に留まっている。
先にあげた「ブルーノート」の傑作『SOMTHIN ELSE』に収録されている<枯葉>のような趣きを感じる。
オールスター揃いぶみのセッションで当時まだ新人だったマイルス・ディビスにいいところを全部任せて、それを受けもって、まだお釣が止まることなく出てくる凄まじさであった、
それに似ている。つまりこの<アメイジング・グレイス>では、マイルスの部分をコーラスが担当しているような感じがするのだ。
最初のパートは、全員で歌い、最も重要な歌詞の部分をエルヴィスは自分を強調せずにソロで歌う。
エルヴィスのソロパート、We've no less days to slng God's praise の”God's praise”は素晴らしい。
エルヴィスはその素晴らしさを静止させたかのようにして、コーラスに譲る。
そして最後のパートはまた全員で歌う。
エルヴィスのソロを受けた3番目のコーラスの部分が”私たちがエルヴィスを守る”と言っているかのように、真摯で、きれいなコーラスを聴かせる。この曲を聴く度に涙してしまう部分だ。
この録音にかける意気込みのようなものがストレートに響く。
ここには仕事を超えたもの、例えば「奇跡」に対峙する意欲のようなもの、あるいは何かを残したいというような意欲、少なくとも願望ではなく意欲を感じるのだ。
恐ろしいほどに途方もなく美しい声だ、
決して力強くないのに、素晴らしく力強いのだ。
人間の声がこんなにも美しいのかと感嘆するしかない。
それを聴かせているのがエルヴィスなのである。
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